ドローンにみる常識の欠如

 近頃、何かと話題のドローン。
 テレビでは、その可能性と弊害が議論され、思想的・愉快犯的犯罪により逮捕者もでる始末に。

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 専門家は後追いで法整備、推進派は規制反対と水と油のような議論に、見ていて、いろいろと抜け落ちているような気がするのは筆者だけではないだろう。

 いかほど最新鋭の飛行物体であろうとも、「鯉のぼり」や「凧」と同じであり、障害物や人のいるところで飛ばしてはいけないということは、ごくごく普通の感覚である。
 格上のラジコンヘリなどは、模型店で使い方を教わり、クラブにも入って、その技術やマナーを高めていく。

 一方、ドローンは、ライセンスはもとより、手にするまでのプロセスが省かれて、贈与論的発想がこれっぽっちもないままにテイクオフ!というマルセル・モースも驚きのおもちゃだ。

 凧やラジコンヘリなどは、そういう静態の社会(贈与=返礼)で成立していたモノだった。
 しかし、ドローンの所持者は、静態の社会を壊し、そのくせ動態の社会に抵抗することもなく理想ばかり語っていたりする。

 可能性は認める。しかし、神事やイベントを中断させる権利はどこにもなくて、ましてその可能性に近づくことは、踏切に飛び込んで自殺するほど多くの人に有害だ。

drone_20150524_2(日和佐八幡神社で飛ぶドローン)

 人の命など、一筋縄ではいかないほどに、大したものでは決してない。
 しかし、カミの乗る神輿や文化財の上に落下したものならば、さてどのように責任をとれるのか、そういう想像力が、お手軽な操縦者の頭の中には、たぶん無い。

 ドローンという市場を安定させるものは、メーカーや専門家の議論ではなく、一般人としてのコモンセンスではないのか。