フィクションの扱い方がおかしい

お笑い芸人・矢部太郎作の漫画「大家さんと僕」の大家さんが亡くなったことが、にわかにニュースとなっていた。

日本では不思議なことではない。振り返れば、島耕作が社長に就任したさいは、日経新聞が特集記事とインタビューまで掲載したし、コボちゃんに妹が生まれると読売新聞もデカデカと記事で祝った。

一見すると、平和で、ほのぼのとするニュースであるかのように見える。

しかし、斜めからこの風潮を危惧すると、あくまでそれはフィクションであるということで、そのフィクションもどの程度まで真に受けて愉しめばいいのかということ。
さじ加減が個々の生きてきた常識と、大げさに言えば表現の自由にすら触りそうで、薄気味悪く感じることもある。

しばしば、表現の自由にひっかかりやすいのは、性と暴力に関する表現。フィクションであっても現実のものであるかのように、諸外国や左巻きの人々は言う。
児童ポルノはいけないが、童顔で幼児体型の成人はNGというように、現実と架空の区別があいまいで、いま話題の「バーチャル専業主婦の麗子」などは、傷だらけの姿で夫に愛されている時間が幸せだとDVを彷彿とさせる闇を抱えて波紋状態である。

いやいや、いうてもフィクションやからな、これは・・・。
創作物は人権侵害にはならないと、あの国連にて世界が喝采をおくったばかりであるのに。

コボちゃんや島耕作は、おふざけのほのぼのニュースでいいだろう。性と暴力は、眉をひそめる人もいるだろう。しかし、フィクションの登場人物が亡くなったことをわざわざSNSで拡散し、SNSでご冥福をお祈りされることに強烈な違和感を感じるのは自分だけであろうか。

少年漫画で育った人間としては、何人の登場人物にご冥福をお祈りしなければならないのか指折り数えてしまうし、ドラゴンボール風に言えば「クリリンのことかー!」と叫びたくもなってくるが、お笑い芸人は、面白いことだけ考えて笑わせてほしいものだと、思うこの頃でありました。