個性を伸ばすと剥げ落ちる物

 サッカーワールドカップも(日本は)あっけなく終わり、ああだこうだと反省と批判が関係もない安全地帯から続出して、“個”やら“チームの融合”という戦後教育の誤謬のような教訓の列挙に(´・ω・`)ガッカリ…である。

 小泉進次郎大先生は、「個の力を高めなくてはならない」などと息巻き、岡田元監督も個人がガッと行く力がどうたらこうたらと日本人のメンタルを弱くするキーワードばかり吐いてまるで左側の人間のよう。

 過剰に多様性を認め、個性を尊重しましょうと思考停止した結果が、ミーイズムに突き進む「砂粒の個」ばかりを生み出してしまった。この「個」の増長が共同体を破壊し、人間関係をギクシャクさせ、比べようもないものに“個性”を与えて何かになったつもりの錯覚はまだ晴れずにいる。

 犬と猫との差異は個性でいいが、犬と犬との違いは個別性だからだ。
 ところが、比べられる個別性からは目をそらし、価値を相対化させるカリキュラムを戦後の日本はとり続けてきた。

 百歩譲って、個が大事だとしても、個別性とか多様性をまとめ上げ機能させるには、もっと上の次元の話が必要で、いわばプルーラル・ソサエティとでもいう国家という価値観を認める修身が敗因として足らなかったのではないか?

 スポーツとはいえ、国と国との戦いだから、当然、ナショナリズムだって必要だし、国家の勝利を勝ち取るためならば、自らを装置として振る舞う訓練とか、そういった公的に物事を考え、冷静な分析に基づいた上での捨て身の精神を制御できるか?という日本人がかつて持っていたメンタルの問題なのではないだろうか。

 筆者がなでしこジャパンが嫌いなのは、国歌がかかったら胸に手を当てて神妙にしていること。
 あの挙措は、一神教の感覚だから、よくそんなメンタルで、何に対して誓ったり祈ったりいるのか理解できなくて情けなかったりする。

 スポーツに限らず、日本があれこれと弱かったりするのは、決して身体的にどうこうというわけではないこの明白さに向き合うことが「まずはじめ」なのではないか。