原因の半分は、ゲジゲジじじい

 早いもので、阪神淡路大震災から20年も経ったのだという。

 ブログなどで鎮魂の祈りなど捧げられても迷惑だろうから何もしないが、感慨深いものはある。

 そしてどうしても、自衛隊への拒否反応で救える半数以上の命を見殺しにした、村山富市に中指を立て、のうのうとした反日余生が1日も早く終了することを願うばかりだ。
 当時の政権メンバーは、今日この日をどんな心持ちで過ごしているのか?

 NHKの震災特番などを見ていると、街の形こそ復元されたが、真の復興は成し遂げられていないのだという。

 日本は震災大国で、天変地異による被災はどうしようもない。
 自然に立ち向かい、蘇ってきたのもまた、日本人というものだ。

 しかし、国による不作為によって、生まれた土地に帰れず心の安寧が取り戻せないのは、福島へと視点が飛んでしまい、あの地の復興が20年足らずで完了するのか?とさえ思ってしまう。

 誤解を恐れずに書くと、街が壊れて借金がのしかかることくらい、終戦直後の焼け野原と比べればどうということもない。
 が、国土(福島)を失ったままの復興へは、只々ため息が出て、自民党では無理だなと気の遠くなるような焦燥が湧く。

 お隣の大阪は、のんきに「大阪都構想」などと鼻息を荒くしているが、世直しのための改革がモノを壊すだけというパラドクスにはまって、ご破算で願いましてはと自らを滅ぼしてしまう病理を「地方創生」と訴える。
 現代人には自殺狂の気味があるとチェスタトンは言ったが、震災を引き金にご破算では、気分の復興は訪れるはずもない。