問題は構造ではなくインターフェイス

 東京都議選から一夜明けて、自民の圧勝に、
「予想通りでした――」
 などとコメントする街の声にうんざりしながら、0増5減の改正公職選挙法案が通った。

 こちらの街の声はというと、
「仕方がないんじゃないですか?」
 と、死に票には目をつぶって、物分りの良い未熟さを世論と叫んだ。

 これがアレクシ・ド・トクヴィルのいう、知性に適応された平等理論とでも言うのだろう。結局、数が正義だという小沢大先生のオツムと大差が寸分もない。

 今日の質疑では、デブドジョウ(野田)が出てきて「(自民党は)甘い!」と晋ちゃんに食って掛かった。
 徳島のメディアも、おおむね、定数削減は時代の要請と言わんばかりだ。

 そもそも、安っぽい身を切る覚悟で議員を減らして、何が高まるというのだろう?

 世界的に見れば、日本は、議員も公務員も不足していて、それは人口比で何人と確か法律に書いてあった気がする。
 そこからさらに減らして、“法律に違反”しながら、違憲状態のために法律に背いて問題意識も持たない空気のほうがマズイのではないのか?
 極端な話、全国民が東京に住んだとしたら、政治家の数は、いったい、何人いれば足りるのだ。

 結局、しわ寄せを食らうのは田舎でしかなくて、日本は、少なくとも都会の人間よりは「社稷(しゃしょく)」を守っていけそうな人々の“声を聞かない”という方向に踏み出した。

 ここでいう社稷(しゃしょく)とは、先祖代々の地域や土地であり、掘り下げていくとカミ様にもらった大地を指す。その大地は、今を生きる者たちのものではなくて、先祖や共同体、信仰によって受け継がれてきたからこそ踏みしめることができるのであって、そういうものの総体を守っていくのが保守だろう。
 漫画家の黒鉄ヒロシは、子供の頃、家に友達を呼んで「ここ、僕の家」と言ったら、たまたま家にいた父親が出てきて「お前の“家”ではない!」と張り倒されたのだという。

 おそらく、こういう感覚こそが、日本の田舎に通ずる社稷(しゃしょく)の匂いなのだろう。
 現実は、「ホシュだ」などと言いながら、自民党は主権のバーゲンセールに邁進し、対立軸が共産党しかいないという最悪の状態になってしまった。

 だが、議員は選挙のたびに劣化する。地元の声をすくうためには、一定の議員がいて、多少、増えていっても別にいい。ただ、衆院落選組の鞍替えや、間接民主主義に耐えられない奴らの選挙制度改革にはつきあいきれなくて、そういう前提では、筆者も引導を渡す側につく。
 そんな場合とばかりに、選挙制度に詳しいらしいどこぞのお偉い教授は、政治家ではない第三者機関の言うことを聞く仕組みが必要なのだと。

「おいおい、常軌を逸しておりますよ(・・?」

 皆の意見を聞くことは大切だ。けれども、いちいちを反映させるとネット選挙も手伝って、最悪のものにしかならないことは、いままでも十分、我々は学んだ。それが、民主主義というもので、方向さえ間違っていなければ、多少、不満があっても良しとする。
 日本という国は、たいした民主主義ではないと思うが、これほどまでに民主主義に従順で、民意が通る国もないのだぞ。

 政治家は、よく「政策」ではなくて「人柄」で選ぶという。だが、筆者はまったく同意できない。
 人柄がよければ、売国することが許されるわけではないからだ。
 むしろ、政治とはダーティで騙し騙され狡猾な駆け引きが要求される世界だから、少々、影で悪いことをやっていても、日本を転覆させない方向に舵を切れる人物のほうがよほど良い。

 そういうものが保守だということを西尾幹二も言っていた気がする。

 以下、引用すると、
 新しい保守とは、自由が専制と隣り合わせていることをしかとわきまえ、完全に自由は存在せず、誰しもがある程度の不自由を我慢し、ある程度の腐敗を許し、ある程度の非効率に耐える『寛容』を前提とする精神のことなのだと。

 雰囲気にのみ頼って、毎度毎度に翻り、統合失調症のような寸劇にいつまでも付き合う国民の、その意思決定法を変えて行かないと、いいかげん、政治は民意についてこないのではなかろうか。

 民主主義という空虚な言葉にうっとりし、わかりやすい正義と微妙にかわいそうだという福祉思想、一般論とヒューマニズムに掛けられた“民意”とやらは、いつしか内側の駄々っ子と化し、何も決められないまま、われわれの郷土を蝕み続けていくしかないのだ。

 こういう構造を正すことを、政治への改革と呼んでくれる人は、どこかにいまいか。