左側のいうフレンズ

「プロ障害者」という言葉を、昨日、初めて耳にした。

 発端は、バニラエアという格安航空会社が車いすの乗客に、タラップを這い上がらせたというニュースによる。
 真相は、ただの印象操作で、航空会社の指示に従わず、勝手に這い上がったことをどういう頭の回転か、差別だと訴え、報道機関にたれこんだのだという。
 後に、フェイスクニュースとして「プロ障害者」というキーワードがにわかにネットを駆け抜けた。

 これは、左寄りのメディアの加担によるものが大きいのであるが、なぜか産経新聞も共生社会への好機にとばかりに「障害者差別解消法」を持ちだして、けっこうな美談を社説に載せる始末だ。

 思考が停止している。

 それは、プルーラル・ソサエティーという前提があってこその共生ではないか。
 過剰なまでに多様性を認めた結果、「一人ひとりの個性を尊重すること」が「好き勝手やっていいこと」とりわけ弱者利権のように利用されている現状に美談で済ませるわけにはいかないだろう。

 プルーラル・ソサエティーとは、個々人の差異は認めるが、その上のもの、例えば、国や伝統、制度、秩序に従った上での個々人の差異であり、これに反対や差別的意見を述べるつもりはない。

 ところが、世の中のプルーラル・ソサエティーというものはすでにプロでなくとも歪んでいて、障害者だから許されるという場面は往々にしてある。
 特に知的障害者などは、行動パターンが読めないことが多く、周囲を不安にさせることもしばしば。身近な日常とて、公共の福祉的にも危なっかしい人が社会参加の名の下、見かける機会が増えてきた。

 昔は、そういう危なっかしい人は独りで出歩かせたりしなかったし、必ず付き人が監督してはじめて、社会の中に踏み出せた。このタガがあってこそ、社会が共生できていたのに、今は、弱者を好き勝手にさせ、目をつむることを「共生社会」と呼んではいないか。
 これでは動物園状態であるが、動物園とて秩序があって監督されているのだから、もはや左側のいうフレンズは、動物以下ということに。

 実にくそくらえな制度である。
 黒人で障害者の慰安婦は世界最強であると、小林よしのりがかつてマンガに描いていたのを思い出されるが、それは、そう遠くはない出来事のように思える。