形而上学の一歩手前

 サヨクの皆さまが大好きな中江兆民が、フランスは「自由」「平等」「博愛」にトチ狂っていると言い当ててからずいぶんな年月が経ったが、仏紙襲撃事件をみていると、ちっとも変わっていないなと思う。

 表現に自由はあっても、嘘を垂れ流したり、信教をむやみに冒涜する自由はないし、そのことによって起こるかもしれない現象は、自由の代償として引き受けなければ、自由の権利もないだろう。

 しかしこの国は、単なる標語を国是のように頑なに守ってケンカをする子供じみたところがあって、4年前のブルカ禁止法にせよ、公共の場から宗教臭を消すことによって人間が開放され、自由で平等だというインチキな法を敷いてしまった。
 イスラム教徒にしてみれば、自由どころか束縛であったに違いない。

 いつだったか、制服廃止を訴えて「人権侵害だ!」と国連に乗り込んだ変な日本の高校生のように、いろんなものが抜け落ちた戯言の一種とは次元の違う話である。

 結局のところ、国というものは、なんらかの宗教的ベースがあって、そこから道徳が生まれていく。
 だとするならば、イスラムを小バカにする国々は、キリスト教の発想でものをいっているわけで、たどってしまえば、イスラムもキリストも目くそ鼻くそで同じだったりする。ゆえに、今回の茶番は、肌の色の違う内ゲバのようにしか見えない有り様。
 あれだけ中東やイスラム諸国を引っ掻き回しておいて「民主主義の輸出」という欧米の発想こそテロの根源たるだろう。

 健全な信教や言論の自由とは、道徳から出発する宗教、そしてその先の形而上学に与しない精神なのではないか?