狸すぎる家族

 先日、NHKでやっていた地域発ドラマ・狸な家族の感想をば。

tanukinakazoku

 一言でいうと退屈だ。

「役者王にオレはなる!(←違う)」
 と、反対を押し切り東京に出て、15年も家族を放っておいた新作(父親)が、テレビの撮影でひょっこりのこのこと「ただいま」から始まる。
 当然、家族の視線は冷たいときた。

 しかし、それを“タヌキのせい”にして丸く納めるという地域の智慧によって片付けて、めでたしめでたしとなる。そこまでは、いい。
 が、たった一晩や二晩で家族へ戻るための試練もなく、吉本新喜劇の辻本茂雄扮する茂造じいさんのように、

「許してやったらどうや~」

 では、ヒューマンドラマとして、あまりにも出来が悪い気がした。

 本当は、もっと悶着があって、許してやるまでのプロセスを描けばいいものを、標準語ばかりで話す田舎者に囲まれて、土着の叡智を薄めているだけに終わり、言葉はあるが実感のない、薄っぺらな絆を演じて、どこか、言葉の貧困すらも感じてしまった。

 山間部で暮らす、一人一人が、さまざまな役割を担い、協力しあう田舎の智慧は素晴らしい。
 けれど、これが通用するのは、つまみ食いがバレた程度の小さな悪くらいなもので、時間軸と化け学で片付けてしまっては、元も子もないのだ。

 極端な話、時間が経ったからといって、
「そろそろ……」
 と、被害者は、加害者(例えば殺人者)を許せるわけがないからだ。

 証拠に、作中、積年のしびれを切らした新作の妻・初子は、密かに離婚を決意する。
 それを知った新作の年老いた母親は、息子夫婦が離婚し、孫娘も大学進学を機に家を出たら、もう家族ではなくなるというニュアンスで、離婚を思いとどまるようそれとなく匂わす。

 身も蓋もない気がした。

 しかも、日本の家族観というものを肝心の年寄りが正確に捉えておらず、結果的にタヌキのせいではなく姑の圧力によってねじ込んでしまった。
 このブログでも、なんども主張し続けているが、日本人とは、「」ではなく「」でつながる民族である。だから他人同士でも、難なく家族ができるのだ。

 15年も家族を捨てていた父親が、たった一晩で改心し、許されるわけがないだろう。また、許す家族も、あまりにも短絡的で滑稽だ。

 ドラマのラストは、渡辺いっけい演じる父親が、
「これからは家族になります」
 と土下座する。

 感動のシーンなのかもしれないが、現代日本の“家族”と”個”の最悪の縮図が投影されていて、腹が捩れるほどに笑ってしまった。

 極めつけは、アンジェラ・アキが歌うアメイジンググレイスに、ちんけな父親の生まれ変わりを、神の恵みであるかのようにフェードアウトしていく。

 日本は、多神教の国だから、タヌキもカミ様の恩恵なのかもしれないが、感覚が、一神教の欧米風だから、いつまでもかしげた首が戻らないでいた。