阿波尾鶏と阿波ポークのつくねバーガー(4個目)

僕は、焼きそばが食べたい。
私は、パンが食べたい。

ともすると、焼きそばパンが出来がちだ。

これを念頭に、4個目となる阿波尾鶏と阿波ポークのつくねバーガーを食べてみる。

いたって形はシンプルだ。
めくってパティ、トマト、レタスにタレ、マヨネーズ等々。
シンプルが良いとはよく言ったもので、少々、評価が難しい。

一見すると、視覚的な徳島らしさは微塵もない。

突如、脱線するが――、
筆者は、かつてより、阿波踊りやすだちで人工的な県民性を充填させる徳島県人がどうも変だと考える。なにせこれを「アイデンティティー」と呼ぶからだ。
阿波踊りはカリキュラムとして県人の身体に刷り込まれてはいるが、踊るだけが能ではなく、子どもの頃、遊んだ川であったり、駆けずり回った山、あるいは、屋上から見える街並み、路地の隙間から覗く日常。
そいうものが根ざした身体に外圧が加わることによって、県民性が顔を出す。

ところが、田舎特有の同調圧力が県民を杓子定規に設計してしまい、阿波踊りやすだちを批判することは、タブーに等しい扱いだ。
本来の伝統芸能、特産品は、県人の、自らの有限性を再確認するための装置として、阿波踊りなり、すだちなり、レンコンがあるのであり、短絡的に「そのモノ」を顕著にしていないと県民性に反し、郷土愛を疑われてしまうという、その「主義」に大きな疑問をもっている。

筆者は、県民とはいえ、阿波踊りもろくに踊れないし、何にでもすだちをかけるのは気持ち悪いし、フィッシュカツをうまいと思ったことがない。レンコンは好きだが、パンに挟みたいとは思わない。
しかし、徳島県は大好きだ。
少し、罪悪感はある。だからといって、すぐさま、連に入って踊りの練習をして、お好み焼きに金時豆を乗せて、ラーメンをおかずにご飯を頬張ることには、無理がある。

これまで、とくしまバーガーを酷評してきた背景には、そういう「個人主義的なパブリック」を地産地消とか地域活性という言葉で絡めて、一向に知名度も上がらず、むやみに拡散だけする組合の「ごっこ」に付き合わされる生産者、商店が気の毒に思うのが始まりだ。

もちろん、第一次産業や食育は大切ではある。だが、偶然、徳島で採れただけの野菜を、日本一、野菜を食べない県民が、指で数えられる程度の食材を認定し、言葉の上で付加価値を付けて、それでも、食育を否定する代表格であるハンバーガーに集約していくことに何の意味があるのか、何かが抜け落ちているのではないか?と感じてしまう。

ティータイムにおける、英国人は、高級な茶葉よりも比較的安価な、常用のソレを好むという。
つまりそれは、連綿とした日常に重きを置き、日常のものには一切、特別視をせずに暮らしていくからこそ、日常の大切さ、ハレとケの区別が小さな子どもでも知っている。
総じて、徳島県がやろうとしていることは、なんでもない「日常」のものをブランド化して、かえって敷居を高くしているように見えて、

「丹誠込めて作った――」

という誠実さが、知名度向上策を追い越して金銭と結びつくところ、県内においても、高価なものになっていくのだ。

余談が過ぎたが、阿波尾鶏と阿波ポークのつくねバーガー
冒頭でも述べたとおり、徳島っぽいわざとらしさがなく良いと書いた。反面、評価のしようもないと。

好きの反対は嫌いではなく、「無関心」といわれる。
だから、このバーガーも、語るに及ばないダメバーガーなのでは?と当初は思った。

ところがどうだ。囓ると欧米的価値観に日本という存在感がどことなく漂い、「つくね」というロジックで「てりやき◯ック」風にスライドさせるところ、ポークまで滑りこませるというアウフヘーベン!

鳥も豚も使いたい。欧風ではあるが、日本らしさも手放したくない。
そんな優柔不断さが産んだ奇妙な食感。和風ベース。それでいて、必要以上に味をいじらない承認欲求のなさに、人知れず余裕を感じるところが憎らしい・・・。
トマトはもちろん、原田ト◯トなどではなく、その辺のトマトなのだろう。
地産地消とは、どこまで使うかが難しい。

そういうものがさり気なく含有された「徳島」の有り様が、これみよがしに特産品を挟むバーガーよりか、好ましい。

ただ、つくねには、ご飯だ。
今後は、モス◯ーガーで売られているライスバーガーっぽく改良を期待して、大して批判もできなかった戯言記事を終わりたい。

わたしは、やさしくないのであえて言う。

「わかりやすいものにアイデンティティーを求めるな!その付加価値が、静かに需要を喰っていく・・・」