HAPPYでPARTYは名古屋から

 去ること、8月6日、日本ガイシホールにて開催されたAqoursの2ndライブに行ってきた。
 久々の名古屋だぎゃー。

 今回のテーマは、HAPPYでPARTYでTRAINな全国ツアーということで、名古屋の地から出発進行!
 折しも息の長い台風接近により開催が危ぶまれたが、のろのろと九州にいたため問題もなく。

 1stから半年余りの2nd。正直、足取りが早い気もしたが、たった半年で1stよりも格段に上達したAqoursを目の当たりにして、やっぱりライブはいいものだと実感する気持ちの悪いオタクはここ。

 二日間で楽曲をガラリと変える挑戦的なセトリは、来たる3rdへ向けての楽曲消化の様相もあり、いささかリード曲の少なさが目立ったが、パフォーマンスと露出の高い衣装にて完全に心を持っていかれてしまい、次なる神戸公演への期待が募るばかりだ。

 楽しさの一方で、今回、ずさんで厳格な本人確認がランダムで実施されたため、本人であるにもかかわらず退場をくらう犠牲者が続出した。顔写真付きの証明書が提示できなかったためだという。
 公式ページには「身分証」としか記載されていなかったうえ、スタッフの対応もまちまちだったため問題化した。

 転売対策なのは、まあわかる。しかしながら、余ったチケットの買い戻し制度や、友人間の譲渡制度が認められていない状態にて、この処理の仕方は、トラブルが起こっても致し方がなかろう。
 けれども、転売がなくなればチケットが確実に買えるという幻想と妬みの声を忖度して、いままで実施してこなかった伝家の宝刀(本人確認)を抜かせた原因は紛れもなくチケット乞食にあり、さて、今後の対応がどのようなものになるか観察の必要があると感じた。

 一面の真理を申し上げると、決して転売は犯罪ではない。このグレーゾーンを突きすぎると、今回のような事件が起きるとわきまえて、無事、神戸でまた会えるよう皆さまの健闘を祈りたい。

 おわり。

 こちらは、恒例のすわわへのプレゼントBOX。
 ちゃんと手紙を入れられて満足満足。内容は、ほとんどラブレターでホンマ自分キモいですwww

民泊ってなんだ

 民泊のそもそもとは、一体何だったのだろうと近頃、不思議に思うことがある。

 民泊とは、インバウンド対策に不足する宿問題を規制の緩和で人を泊めてもいいぞという発想から出発したものだったと記憶している。

 ところが最近では、個人が人を泊めてやって金をもらうというビジネスに国がお墨付きを与えてしまっただけで、徳島でも「阿波踊り民泊」なるまったくよくわからない試みが始まろうとしている。

 確かに、徳島は奈良と同じく宿泊施設が少ない県であるが、それは徳島駅周辺では一定以上が賄えないというだけで、宿泊施設がないわけでもない。むしろ、イベント期間中に遠方の宿は公共交通がないから倦厭されがち。明石海峡と高速バスの発達という車社会の末路なだけではないか。
 この奇妙な受給の調整を「お接待の心で」などと云われても、県民としてはちゃんちゃらおかしい。

 お接待といえば、お遍路に関しても民泊が活用されはじめ、お寺がホテル代わりになるのだと。いずれ、お接待でやっていたタダ飯タダ宿も、民泊の精神によって経済の中に組み込まれていくに違いない。

 もちろん、今と昔は違うだろう。お遍路で死ぬことも稀。別段、腹が減っているわけでもなく、財布には万札と電子マネー。
 金を崩すのがいやで喉の乾きを我慢してとことこ歩いていると、一台の軽トラが通り過ぎては止まり、そこまで歩くと「休んでいけ」という。
 怪訝にもついて行くと、どうということもない出来合いの料理が並んでいるが、一口食べると何かが沁みわたっていく。
 こういうものの累積が、日本を日本にしている精神のはず。

 なんだか嫌なのは、オリンピックを機に、7000円でお接待しますよとでもいいたげな「O・MO・TE・NA・SHI」である。
 まあいいか。「おもてなし」とは、裏があるから表なしだからだ。

否定と更新が足りない

 文化にも寿命がある、とはよく言ったもので、一般的にそれは50年程度であるといわれる。
 よしんば、残ったとしても、すでに大衆のものではなくなっていることがしばしば。

 7月も中旬になり、盆を意識し始めると、確かにそうだと、一時、週刊誌を賑わせた「阿波踊り中止問題」が思い出される。

 知らない人のためにはしよって説明すると――、
 阿波踊りとは、徳島の伝統芸能でもなんでもなく、日本で唯一の社団法人である徳島新聞社主催のイベントである。
 このイベントを運営するのが徳島市観光協会であり、しわ寄せと慢性的な赤字体質に陥れた新聞社との対立が週刊誌やワイドショーによって明るみに出たというもの。

 このままでは開催中止というところまでいったものの、その間、新聞社はダンマリを決め込み、先日、ベタ記事に「徳島市が補填するから心配ない」というような、腑に落ちない解説によって幕引きとなる。

 真相は、どうでもいい。
 そもそも、阿波踊りの起源は盆踊りや風流踊り、築城記念とさまざまではあるが、本来は、大衆のものであったはず。それが、いつの間にやら、運動家しかいないような新聞社が主催するようになってしまった。大衆の敗北である。
 なぜなら、文化を生き長らえさせる努力をしなかったから。

 徳島県人というものは、とかく変化を嫌い、何もしないことを「ホシュ」と呼ぶ。
 結果、あれやこれやと壊れていってなお、先進が足りないのだと左側で左右にゆらゆら振れているのが実態である。

 これは、新町西再開発事業についても言え、ただただ音楽ホールなどいらないと白紙撤回の市長を当選させるありさまで、閑散としたアーケード街の活性化という目的をみごとに忘れてしまっているではないか。
 音楽ホールは、老朽化による立替であり、当時用地もなかったから再開発とパッケージになったわけで住民の大半が賛同した。
 にもかかわらず、マキャベリ的知性仮説のごとく、他所から来た反対のための反対者が一部の弱者の見方をするふりをして、長年かけてまとまった話をひっくり返すというウルトラCを完遂し、徳島駅横に音楽ホールを作るのだというから、頭がどうかしているとしか言いようがない。

 それもそうか。女子高生のパンツの写真を視察の資料だと言い張る市議がいるくらいだから、ボスが大したことがないことくらい容易に想像がつく。県もしかりだ。
 世は、加計学園問題で国会は国の体をなしていないけれども、徳島も同じような問題を「徳島へカモーン!」な知事が絶賛進行中ときた。

 筆者は、徳島が素晴らしい土地であるとは思わないし、何の魅力があるとは思わない。可能性があるとも思えない。
 ただ、変わってほしくないとは思っている。

 それは、変わらないために変化して、否定して更新するという作業の繰り返しである。
 徳島に足りないものは、おそらく、これに違いない。

左側のいうフレンズ

「プロ障害者」という言葉を、昨日、初めて耳にした。

 発端は、バニラエアという格安航空会社が車いすの乗客に、タラップを這い上がらせたというニュースによる。
 真相は、ただの印象操作で、航空会社の指示に従わず、勝手に這い上がったことをどういう頭の回転か、差別だと訴え、報道機関にたれこんだのだという。
 後に、フェイスクニュースとして「プロ障害者」というキーワードがにわかにネットを駆け抜けた。

 これは、左寄りのメディアの加担によるものが大きいのであるが、なぜか産経新聞も共生社会への好機にとばかりに「障害者差別解消法」を持ちだして、けっこうな美談を社説に載せる始末だ。

 思考が停止している。

 それは、プルーラル・ソサエティーという前提があってこその共生ではないか。
 過剰なまでに多様性を認めた結果、「一人ひとりの個性を尊重すること」が「好き勝手やっていいこと」とりわけ弱者利権のように利用されている現状に美談で済ませるわけにはいかないだろう。

 プルーラル・ソサエティーとは、個々人の差異は認めるが、その上のもの、例えば、国や伝統、制度、秩序に従った上での個々人の差異であり、これに反対や差別的意見を述べるつもりはない。

 ところが、世の中のプルーラル・ソサエティーというものはすでにプロでなくとも歪んでいて、障害者だから許されるという場面は往々にしてある。
 特に知的障害者などは、行動パターンが読めないことが多く、周囲を不安にさせることもしばしば。身近な日常とて、公共の福祉的にも危なっかしい人が社会参加の名の下、見かける機会が増えてきた。

 昔は、そういう危なっかしい人は独りで出歩かせたりしなかったし、必ず付き人が監督してはじめて、社会の中に踏み出せた。このタガがあってこそ、社会が共生できていたのに、今は、弱者を好き勝手にさせ、目をつむることを「共生社会」と呼んではいないか。
 これでは動物園状態であるが、動物園とて秩序があって監督されているのだから、もはや左側のいうフレンズは、動物以下ということに。

 実にくそくらえな制度である。
 黒人で障害者の慰安婦は世界最強であると、小林よしのりがかつてマンガに描いていたのを思い出されるが、それは、そう遠くはない出来事のように思える。

答えはプレミアムフライデーにあり

 電通の社員が自殺し、ヤマトの人手不足が表面化してきたことで、にわかに取り上げられるようになった「働き方改革」。

 ともなって、地域ごとに休みを分断する「キッズウィーク」だの、学校と地域の結びつきを強めるだのと「教師の日」の創設が提言され、静岡県の吉田町は夏休みを10日間に短縮するのだときた。

 これには、違和感をおぼえる。忙しいのは問題ではなく、何で忙しいかが問題であるかという点が完全にスルーされているからだ。

 確かに、現場への過度な負担を軽減していくのは必要である。ヤマトの場合、すべてをネットに投げてしまった現代人の甘えと過度なサービスがもたらす解決不能の命題ですらある。

 一方で、ユネスコに威を借りた「教師の日」というおためごかしな教育再生とやらは、結局のところ、教師たちの「働きたくない」ための改革を進めているだけではないのか。

 残念ながら、職業というものは、パートタイムで済まされるほど簡素なものではなく、その職業なりに+アルファなサービスというものは少なからずある。
 刑事や探偵、記者などは、追っている事件やニュースのために、昼夜問わず張り込むこともあるだろうし、作家は作家で、アイデアを練るために本を読んだり資料集めで、休日との境目は皆無だ。
 かの夏目漱石も、ごろんと横になっていることを指摘され、「偉くなるために横になっている」のだと屁理屈を言ったが、まあ、そういう具合に、寝ていても「思案」という仕事をしていることになるだろう。

 教師とて同じであり、教師になってしまった以上、授業以外にも学校行事や生徒のあれこれ面倒をかかえて対処するのは当然の範疇であり、「改革」をするほどたいそうなことでもないような気がする。

 いじめ問題一つとっても、事件が起こるたびに対策チームができ、報告が上がる都度、「いじめであるとは断定できなかった・・・」というパートタイマーな言い訳をして、信条である民主主義によって、日々、子供が自殺していくという現状は、煙を立てると火を吹いて始末が面倒であるという現れではないか。

 昨今、昭和の学園ドラマのような熱血教師は、稀有な存在になっている。筆者が子供の頃は、放課後に進んで勉強を見てくれたり、休日に遊びに連れて行ってくれる先生も少なからずいた。
 ところが今はどうだろう、生徒ひとりガツンと叱ろうものならば、半沢直樹もびっくりの数倍返しで職を失いかねず、やらなくてもいいことばかりが、地域や保護者からアウトソーシングされる気の毒な現場である。

 だからと言って、わざわざ改革を起こしてパートタイマーになってみたところで、子供の休みが短くなるだけの結果に終わってしまうことは、プレミアムフライデーが証明していないか?

 ヘンリー・デイヴィッド・ソローは、「勤勉が取り柄なら蟻と変わらず、なぜ勤勉であるかが問題」と「忙しいのは問題ではなく、何で忙しいか」というようなことを言っている。

 日本の企業体と教育現場は、この本質が完全に入れ替わっているような気がするのだが・・・。

頃合いのわからない大人

 三年ほど前、「今度こそ本当に辞める」と引退会見を開いた宮崎駿が、「やっぱりやります」と復帰宣言をした。
 これにはファンもメディアも、辞める辞める詐欺に焼きが回った老人のごとく冷ややかな反応を示したが、遡れば、宮崎駿は、40代の頃から「引退」宣言を繰り返してきた常習犯ではなかったか。

 映画をよく見る人には正体がバレてしまっているが、宮崎作品は何を伝えたいのかさっぱりわからず、後半はダレてしまう駄作の多い巨匠である。
 思想的背景も左側で、こういった潔しとしない身の振り方は、嗚呼、やっぱり修身の管理ができない人種なのだろうと思ってしまう。

 浅田真央が引退会見を開いたとき、まだ若いのにと惜しまれる声が大半だったが、何かとお騒がせの曽野綾子は、「ヘリキア」という新約聖書の言語を引いて、「適した頃」を説いていた。

 ヘリキアとは、「寿命」とか「適した年齢」、「背丈」という意味があるらしく、寿命と背丈は、人間個人の力では、どうにもならないことで諦め受け入れるほかない。
 他方、「適した年齢」という概念に関して、現代人は寿命と同等のように誤解しているのがみっともないのだと、まあそういう趣旨のコラムである。

 浅田真央は、若い。が、フィギュアをする上では、身体的に寿命を悟って身を引く決断をした。
 スポーツ選手によくいる。引退をして、指導者になるか解説者になるかだ。これも立派なヘリキアである。
 逆もある。若くして天啓が開けた思想家・宗教家は、箔が付く年齢まで自らを成熟させ、世の中が受け入れる体勢を作り出す。なにせ、人間、15歳程度で頭脳も思想も止まっているとされるから。

 女子中高生ですら、女子大生をババア呼ばわりするほど過酷で限りなく短い乙女の時間を目の当たりにしているというのに。

 いかんせん、成熟することに越したことはないし、それだけ叡智もあるのであろう。
 しかし、年寄りの作り出すエンターテイメントに面白いものがあったためしもなく、万人向けのアニメーション映画を作るなど、焼きが回ったとしか思えないのだが。

 人間、大抵の人は頂きを目指しはする。そして凡人は、その頂きで得たものを広めようとする。
 しかし、人間の本質というものは、頂きを極めたら、そっと非知に向かって着地するのがよろしく、まして着地した後に再び頂きを目指そうとするのは、みっともなくて、反面教師にするしか評価しようもないではないか。

教育や金ではない操作変数

 神社仏閣の近くで育つと、幸福感を感じやすいという調査結果を大阪大学の研究チームがソーシャル・キャピタル的観点でまとめたのだという。

 そんなバカな! と一見すると思いそうになる。しかし、確かにわからんでもない。
 近所に神社があると、何かしらの祭りがあるし、子供のうちから、それに関わっていくといろんな人にもまれて、世の中の渡り方を自然と覚える。ときに衝突もあったりするが、雨が降れば地も固まるわけで、コミュ障になっている暇はなかなかない。

 これら中間共同体での出来事が蓄積されると、地域と繋がりができて幸福であるというのは、なるほどそうかと頷いた。

 これにはさらに、続きがあって、神社仏閣の近くで育った人は、そうでない人よりも年収が高い傾向にあるそうで、おそらく、人とうまくやれる人は、それだけ仕事もできるからだということか。
 日本経済新聞社の「日経を読む人は高所得だ」と言わんばかりの論調よりも、がぜん説得力がありましょう。

 こういった「操作変数」は、国民性や地域性、家族や個々人の性格にまで続いているもので、神や仏の管轄というものは、なんだかよくわからないが、不思議で面白いものだと自覚する。

 例えば、人の性格は優生学的に血液型や生まれ月で判断されがちであったりするが、神道的な感覚で解釈すると、また違った景色が見えてこないか。

 人は生まれてから死ぬまで一生、面倒を見てくれる、産土(うぶすな)のカミ様がついているとされる。
 この産土のカミ様は、生まれた場所を管轄する神社(カミ様)や、お宮参りをした神社(カミ様)が請け負うことになっている。
 一方で、氏神様というものは、住んでいる地域のカミ様のこと。

 一生、住む場所を変えないのであれば、産土のカミ様は同じであるが、現代人は移住をするから、産土と氏神のコンビネーションによって守られ、少しずつ性格にも違いが生じていくのだ。

 親兄弟ですら性格が違うのは、父親と母親の産土が同じとは限らないし、子供とて、生まれる住居や病院が違うと、管轄するカミ様の組み合わせも変わってくるから、やっぱりどうして、違った人生を歩みがち。

 また、都道府県には「一宮」という県の神社の総本部のような場所があり、そこに祀られているカミ様が県民性という雰囲気をもってして、一人の人格に彩を与える。これぞ、「産土性格診断」なり。

 つまるところ、カミのお陰によって生かされ、その自覚があるかないかで幸福度が違うというのは、歴史に筋を通して謙虚に生きることかもしれず、砂粒の個では生きにくいという、ごくごく当たり前の示唆なのである。