否定と更新が足りない

 文化にも寿命がある、とはよく言ったもので、一般的にそれは50年程度であるといわれる。
 よしんば、残ったとしても、すでに大衆のものではなくなっていることがしばしば。

 7月も中旬になり、盆を意識し始めると、確かにそうだと、一時、週刊誌を賑わせた「阿波踊り中止問題」が思い出される。

 知らない人のためにはしよって説明すると――、
 阿波踊りとは、徳島の伝統芸能でもなんでもなく、日本で唯一の社団法人である徳島新聞社主催のイベントである。
 このイベントを運営するのが徳島市観光協会であり、しわ寄せと慢性的な赤字体質に陥れた新聞社との対立が週刊誌やワイドショーによって明るみに出たというもの。

 このままでは開催中止というところまでいったものの、その間、新聞社はダンマリを決め込み、先日、ベタ記事に「徳島市が補填するから心配ない」というような、腑に落ちない解説によって幕引きとなる。

 真相は、どうでもいい。
 そもそも、阿波踊りの起源は盆踊りや風流踊り、築城記念とさまざまではあるが、本来は、大衆のものであったはず。それが、いつの間にやら、運動家しかいないような新聞社が主催するようになってしまった。大衆の敗北である。
 なぜなら、文化を生き長らえさせる努力をしなかったから。

 徳島県人というものは、とかく変化を嫌い、何もしないことを「ホシュ」と呼ぶ。
 結果、あれやこれやと壊れていってなお、先進が足りないのだと左側で左右にゆらゆら振れているのが実態である。

 これは、新町西再開発事業についても言え、ただただ音楽ホールなどいらないと白紙撤回の市長を当選させるありさまで、閑散としたアーケード街の活性化という目的をみごとに忘れてしまっているではないか。
 音楽ホールは、老朽化による立替であり、当時用地もなかったから再開発とパッケージになったわけで住民の大半が賛同した。
 にもかかわらず、マキャベリ的知性仮説のごとく、他所から来た反対のための反対者が一部の弱者の見方をするふりをして、長年かけてまとまった話をひっくり返すというウルトラCを完遂し、徳島駅横に音楽ホールを作るのだというから、頭がどうかしているとしか言いようがない。

 それもそうか。女子高生のパンツの写真を視察の資料だと言い張る市議がいるくらいだから、ボスが大したことがないことくらい容易に想像がつく。県もしかりだ。
 世は、加計学園問題で国会は国の体をなしていないけれども、徳島も同じような問題を「徳島へカモーン!」な知事が絶賛進行中ときた。

 筆者は、徳島が素晴らしい土地であるとは思わないし、何の魅力があるとは思わない。可能性があるとも思えない。
 ただ、変わってほしくないとは思っている。

 それは、変わらないために変化して、否定して更新するという作業の繰り返しである。
 徳島に足りないものは、おそらく、これに違いない。

左側のいうフレンズ

「プロ障害者」という言葉を、昨日、初めて耳にした。

 発端は、バニラエアという格安航空会社が車いすの乗客に、タラップを這い上がらせたというニュースによる。
 真相は、ただの印象操作で、航空会社の指示に従わず、勝手に這い上がったことをどういう頭の回転か、差別だと訴え、報道機関にたれこんだのだという。
 後に、フェイスクニュースとして「プロ障害者」というキーワードがにわかにネットを駆け抜けた。

 これは、左寄りのメディアの加担によるものが大きいのであるが、なぜか産経新聞も共生社会への好機にとばかりに「障害者差別解消法」を持ちだして、けっこうな美談を社説に載せる始末だ。

 思考が停止している。

 それは、プルーラル・ソサエティーという前提があってこその共生ではないか。
 過剰なまでに多様性を認めた結果、「一人ひとりの個性を尊重すること」が「好き勝手やっていいこと」とりわけ弱者利権のように利用されている現状に美談で済ませるわけにはいかないだろう。

 プルーラル・ソサエティーとは、個々人の差異は認めるが、その上のもの、例えば、国や伝統、制度、秩序に従った上での個々人の差異であり、これに反対や差別的意見を述べるつもりはない。

 ところが、世の中のプルーラル・ソサエティーというものはすでにプロでなくとも歪んでいて、障害者だから許されるという場面は往々にしてある。
 特に知的障害者などは、行動パターンが読めないことが多く、周囲を不安にさせることもしばしば。身近な日常とて、公共の福祉的にも危なっかしい人が社会参加の名の下、見かける機会が増えてきた。

 昔は、そういう危なっかしい人は独りで出歩かせたりしなかったし、必ず付き人が監督してはじめて、社会の中に踏み出せた。このタガがあってこそ、社会が共生できていたのに、今は、弱者を好き勝手にさせ、目をつむることを「共生社会」と呼んではいないか。
 これでは動物園状態であるが、動物園とて秩序があって監督されているのだから、もはや左側のいうフレンズは、動物以下ということに。

 実にくそくらえな制度である。
 黒人で障害者の慰安婦は世界最強であると、小林よしのりがかつてマンガに描いていたのを思い出されるが、それは、そう遠くはない出来事のように思える。

答えはプレミアムフライデーにあり

 電通の社員が自殺し、ヤマトの人手不足が表面化してきたことで、にわかに取り上げられるようになった「働き方改革」。

 ともなって、地域ごとに休みを分断する「キッズウィーク」だの、学校と地域の結びつきを強めるだのと「教師の日」の創設が提言され、静岡県の吉田町は夏休みを10日間に短縮するのだときた。

 これには、違和感をおぼえる。忙しいのは問題ではなく、何で忙しいかが問題であるかという点が完全にスルーされているからだ。

 確かに、現場への過度な負担を軽減していくのは必要である。ヤマトの場合、すべてをネットに投げてしまった現代人の甘えと過度なサービスがもたらす解決不能の命題ですらある。

 一方で、ユネスコに威を借りた「教師の日」というおためごかしな教育再生とやらは、結局のところ、教師たちの「働きたくない」ための改革を進めているだけではないのか。

 残念ながら、職業というものは、パートタイムで済まされるほど簡素なものではなく、その職業なりに+アルファなサービスというものは少なからずある。
 刑事や探偵、記者などは、追っている事件やニュースのために、昼夜問わず張り込むこともあるだろうし、作家は作家で、アイデアを練るために本を読んだり資料集めで、休日との境目は皆無だ。
 かの夏目漱石も、ごろんと横になっていることを指摘され、「偉くなるために横になっている」のだと屁理屈を言ったが、まあ、そういう具合に、寝ていても「思案」という仕事をしていることになるだろう。

 教師とて同じであり、教師になってしまった以上、授業以外にも学校行事や生徒のあれこれ面倒をかかえて対処するのは当然の範疇であり、「改革」をするほどたいそうなことでもないような気がする。

 いじめ問題一つとっても、事件が起こるたびに対策チームができ、報告が上がる都度、「いじめであるとは断定できなかった・・・」というパートタイマーな言い訳をして、信条である民主主義によって、日々、子供が自殺していくという現状は、煙を立てると火を吹いて始末が面倒であるという現れではないか。

 昨今、昭和の学園ドラマのような熱血教師は、稀有な存在になっている。筆者が子供の頃は、放課後に進んで勉強を見てくれたり、休日に遊びに連れて行ってくれる先生も少なからずいた。
 ところが今はどうだろう、生徒ひとりガツンと叱ろうものならば、半沢直樹もびっくりの数倍返しで職を失いかねず、やらなくてもいいことばかりが、地域や保護者からアウトソーシングされる気の毒な現場である。

 だからと言って、わざわざ改革を起こしてパートタイマーになってみたところで、子供の休みが短くなるだけの結果に終わってしまうことは、プレミアムフライデーが証明していないか?

 ヘンリー・デイヴィッド・ソローは、「勤勉が取り柄なら蟻と変わらず、なぜ勤勉であるかが問題」と「忙しいのは問題ではなく、何で忙しいか」というようなことを言っている。

 日本の企業体と教育現場は、この本質が完全に入れ替わっているような気がするのだが・・・。

頃合いのわからない大人

 三年ほど前、「今度こそ本当に辞める」と引退会見を開いた宮崎駿が、「やっぱりやります」と復帰宣言をした。
 これにはファンもメディアも、辞める辞める詐欺に焼きが回った老人のごとく冷ややかな反応を示したが、遡れば、宮崎駿は、40代の頃から「引退」宣言を繰り返してきた常習犯ではなかったか。

 映画をよく見る人には正体がバレてしまっているが、宮崎作品は何を伝えたいのかさっぱりわからず、後半はダレてしまう駄作の多い巨匠である。
 思想的背景も左側で、こういった潔しとしない身の振り方は、嗚呼、やっぱり修身の管理ができない人種なのだろうと思ってしまう。

 浅田真央が引退会見を開いたとき、まだ若いのにと惜しまれる声が大半だったが、何かとお騒がせの曽野綾子は、「ヘリキア」という新約聖書の言語を引いて、「適した頃」を説いていた。

 ヘリキアとは、「寿命」とか「適した年齢」、「背丈」という意味があるらしく、寿命と背丈は、人間個人の力では、どうにもならないことで諦め受け入れるほかない。
 他方、「適した年齢」という概念に関して、現代人は寿命と同等のように誤解しているのがみっともないのだと、まあそういう趣旨のコラムである。

 浅田真央は、若い。が、フィギュアをする上では、身体的に寿命を悟って身を引く決断をした。
 スポーツ選手によくいる。引退をして、指導者になるか解説者になるかだ。これも立派なヘリキアである。
 逆もある。若くして天啓が開けた思想家・宗教家は、箔が付く年齢まで自らを成熟させ、世の中が受け入れる体勢を作り出す。なにせ、人間、15歳程度で頭脳も思想も止まっているとされるから。

 女子中高生ですら、女子大生をババア呼ばわりするほど過酷で限りなく短い乙女の時間を目の当たりにしているというのに。

 いかんせん、成熟することに越したことはないし、それだけ叡智もあるのであろう。
 しかし、年寄りの作り出すエンターテイメントに面白いものがあったためしもなく、万人向けのアニメーション映画を作るなど、焼きが回ったとしか思えないのだが。

 人間、大抵の人は頂きを目指しはする。そして凡人は、その頂きで得たものを広めようとする。
 しかし、人間の本質というものは、頂きを極めたら、そっと非知に向かって着地するのがよろしく、まして着地した後に再び頂きを目指そうとするのは、みっともなくて、反面教師にするしか評価しようもないではないか。

教育や金ではない操作変数

 神社仏閣の近くで育つと、幸福感を感じやすいという調査結果を大阪大学の研究チームがソーシャル・キャピタル的観点でまとめたのだという。

 そんなバカな! と一見すると思いそうになる。しかし、確かにわからんでもない。
 近所に神社があると、何かしらの祭りがあるし、子供のうちから、それに関わっていくといろんな人にもまれて、世の中の渡り方を自然と覚える。ときに衝突もあったりするが、雨が降れば地も固まるわけで、コミュ障になっている暇はなかなかない。

 これら中間共同体での出来事が蓄積されると、地域と繋がりができて幸福であるというのは、なるほどそうかと頷いた。

 これにはさらに、続きがあって、神社仏閣の近くで育った人は、そうでない人よりも年収が高い傾向にあるそうで、おそらく、人とうまくやれる人は、それだけ仕事もできるからだということか。
 日本経済新聞社の「日経を読む人は高所得だ」と言わんばかりの論調よりも、がぜん説得力がありましょう。

 こういった「操作変数」は、国民性や地域性、家族や個々人の性格にまで続いているもので、神や仏の管轄というものは、なんだかよくわからないが、不思議で面白いものだと自覚する。

 例えば、人の性格は優生学的に血液型や生まれ月で判断されがちであったりするが、神道的な感覚で解釈すると、また違った景色が見えてこないか。

 人は生まれてから死ぬまで一生、面倒を見てくれる、産土(うぶすな)のカミ様がついているとされる。
 この産土のカミ様は、生まれた場所を管轄する神社(カミ様)や、お宮参りをした神社(カミ様)が請け負うことになっている。
 一方で、氏神様というものは、住んでいる地域のカミ様のこと。

 一生、住む場所を変えないのであれば、産土のカミ様は同じであるが、現代人は移住をするから、産土と氏神のコンビネーションによって守られ、少しずつ性格にも違いが生じていくのだ。

 親兄弟ですら性格が違うのは、父親と母親の産土が同じとは限らないし、子供とて、生まれる住居や病院が違うと、管轄するカミ様の組み合わせも変わってくるから、やっぱりどうして、違った人生を歩みがち。

 また、都道府県には「一宮」という県の神社の総本部のような場所があり、そこに祀られているカミ様が県民性という雰囲気をもってして、一人の人格に彩を与える。これぞ、「産土性格診断」なり。

 つまるところ、カミのお陰によって生かされ、その自覚があるかないかで幸福度が違うというのは、歴史に筋を通して謙虚に生きることかもしれず、砂粒の個では生きにくいという、ごくごく当たり前の示唆なのである。

アナクロニズムに忖度できるか?

 天皇の生前譲位問題を議論する有識者会議が出した最終報告。
 これが、げっそりするほどバカバカしくて笑い飛ばす気力も失せてしまった。

 なにせ、有識者のメンバーが、日本の特殊な時代の、特殊な一面だけを美化した価値観のみをコンサバティブなものととらえ、アナクロニズムに侵された発想のみで議論し、国民のコモンセンスや野党の反論は、置いてけぼりにされたから。

 民進党の細野代表代行が、「権限のない奴らが勝手に決めている」と批判したのはそのとおりだ。

 その中身といえば、「玉座を胸壁とするなかれ」とうたいながら、長い皇室の歴史や価値観を無視して、天皇の言葉とは違った方向へと「忖度」して進む。あげく、聞く耳もたずを憲法を盾にして、国民の総意とばかりに処理してしまった。

 これが、自民党や自称ホシュのいう「国民主権」なのだとすると、主権者教育からして間違っているではないか。
 しかも、今後は政争の具にされることを危惧して、二度とお気持ちの表明はさせないのだと。

 ちゃんちゃらおかしい。

 従来の天皇は、国政にも戦争にも関わっていたし、禁止されているのは、宮中祭祀の拒否や、政治家が天皇を政争の具にすることぐらいで「お気持ち」の表明など問題ですらなかった。

 歴史を遡って、薩摩と長州が国を回していたとき、天皇を菊のカーテンの奥に閉じ込め、存在するだけで尊いものに仕立てあげ、「おためごかし」に政争の具に使った。虎の威を借るなんとかである。
 本来は、天皇と国民は相思相愛の関係であり、国民は、天皇家を眺めて、家族や地域、国のあり方に安定と尊さを投影していたはずである。

 だからこそ、敗戦後、米国は日本国民と天皇の絆の強さに畏れ、日本の歴史は終わらせなかったし、クソのような憲法でさえ、第一条に天皇に関することを持ってきた。

 神風という戦闘手法に震え上がり、原爆を2つ落としても国は以降も周っている。これを支えている日本人の精神性は、天皇との紛れもない絆である。
 たった数日で書かれた憲法であれど、GHQの方が、よほど天皇という存在についてよくよく理解しているし、激動の時代の先頭に立った昭和天皇の活躍を有識者会議の年寄りは忘れてしまったとでもいうのか?

 世界の国々は、連綿と続く日本のもの凄い皇室に少なからず畏怖の念をもっている。だからこそ、天皇の国政介入には消極的。
 ところが、現代日本の有識者会議は、昔の政府の発想そのもの。
 だから、女性宮家しかり女性天皇反対で、皇室の安定など、自らの価値観の前には、一切関心がない。

 これは、「忖度」ではなく「おためごかし」というのである。
 有識者会議のパッパラパーは、必ずや逆賊として歴史に名を残すことでありましょう。

お遍路いろいろ

 暖かくなってくると、四国ではお遍路を見かける機会が増えてきますな。

 近頃では、外国人は珍しいものではなくなり、女独り遍路、子供連れ、ペット同伴、障害者、社員研修に杖二刀流のノルディックウォーキングなど、ずいぶんと認知がすり合わせもなく共有されてきたものだと思う。
 いよいよ、値打ちのない悲願の世界遺産登録が射程圏内といったところでしょうか。

 と、こんなことを書くと、お遍路に対して否定的な立場ではないかと思われがちですが、お遍路とは「お心」というので、まあ、好きに周ればいいでしょう。

 四国の(徳島だけかもしれないが)昔の人たちが子供の頃は、悪いことをすると「お化けに食われる」などという文句ではなく、「お遍路さんに連れて行ってもらうぞ!」と叱られたことが一度はあるはず。
 それは、お遍路という存在が、覚悟と影を持ち合わせ、白装束という格好も異様なものに見えたから。

 そんな、脅しと教育の素材だったものが、口を開けば「O・MO・TE・NA・SHI」への対象にすり替わってしまい、あたかもそれが連綿と続いてきて、明るく隔て無く受け入れてきたかのような、そういったいつ切り替わったのかわからない受け入れ体制に違和感を少し持っている。
 近所からもらった果物、傷みかけのお菓子などがあったとして、そこへお遍路が通りかかったら「あの人にやっとこう・・・」と在庫処分するかのごとく「接待」をすることもあるだろう。これが、本来の効用を期待しない値打ちのある行いではないか。

 一見、そんなどーでもよくて、湿ったような発想から、覚悟の人の命を繋げてきていた側面はあったように思えて、その辺の感覚だけは、忘れておきなくないものだ。

 一方、お接待が当たり前と思っているお遍路でさえ、中にはストイックな人もいて、物をもらっても食べずに捨てたり、車に乗せてもらっても元いた場所に戻ったりと、なかなかどうして、かみ合わないこともあるようで、結局は土地柄、好きなようにやればいいようだ。

 おわり。