とくしまバーガー(8個目)

今回は、前回の小松島の“とくしまバーガー”を意識して、松茂の“とくしまバーガー”を食べてみた。

そろそろ、ダレてきた第8個目。

はじめに明かしてしまうと、このバーガーは、県内ではグランプリを受賞したそうで、全国では8位となっている。

見た目に大した特徴はない。バンズに何か練られているようだが、ほうれん草であるという。
めくると、純粋に肉だけのパティとレタスにトマト。あと少しばかりの酸味がある。
ほぼ確実に、すだちかもしれない。

グランプリというだけのことは、ある。
安易に手を出した他店のような、自己の客観化を忘れた紋切りバーガーよりかは、格段に肉の味がする。
その点、なかなか驚きではあるものの、結局、徳島らしさも、原点に帰すのが吉らしい。

筆者の大嫌いな価値相対主義でいうならば、現時点では、至極まともだ。
ただ、満点ではない。

バンズはモッチリと歯に抵抗して噛みにくいし、肝心の肉をお決まりの水分(主にトマト)で受け止めて、パティの上に阿波牛のスライスを乗せるという蛇足は、自信のなさの現れか?
せっかく、肉の味がしていたのに、余計な味付けで安っぽい牛丼を食べているかのような風味を生み出し、喉元過ぎても、しばらく口内にとどまり続ける。

それがなんとも、県人好みの野暮ったい味で、他所との違いを優越感ではなく、差別意識と自戒して、逃げ切ることもなくゴール手前で後者の到着を待つような感覚。
もしくは、別れた恋人との想い出を処分したつもりでも、部屋の片隅に、遺品がなお飾ってあるかのような未練がましい工夫が、このバーガーの限界を如実におしえた。

大衆に評価されるということは、さして重要なことではない。
人間は常に、利己的でアホだから、皆が食べるから食べるというバンドワゴン効果やら、無難なものを選んでいく美人コンテストの理論でしか動いていないことくらい、普通の人ならば、コモンセンスとして体現している。

そこには、グランプリやら全国8位という結果も意味をなさない。むしろ、評価されるということに不名誉を感じるべきで、批判はそよ風のごとく心地よい境地でありたいな!

かつてより、筆者が、このとくしまバーガーをおちょくっている背景には、評価の基準が判然とせず、どれもかしこも無難なものに落ち着いてしまう、味覚オンチ達へのアンチテーゼだ。

地域活性化という空虚な意気込みを掲げて何かを作ろうとしたとき、まず、企画から販売までの過程において、経済団体やら商工会、青年会議所という世間(コネ)と否応なく関わらなければならない。が、しょせん世間とは“私”の領域であり、私的感情が支配している。
とくしまバーガーを売る組合の設立趣旨書は、そんな不満を慰める唯一の笑いだ。

小林よしのり風に言うならば、その世間がいつの間にか、同調圧力に変化して、周囲をシラケさせてでも物事を完遂する意志を奪い、乏しい発想を制約のせいにして、お客の声とやらを“無難”にすり替え、「結果」ではなく「過程」に満足していく。
そこには、徳島のモノさえ使えば良いと信じこむ、協同主観しかなく、クリエイティブな発想はこぼれてばかりだ。

これでは、県民がわけもなく食べている食材に、内向きな付加価値を付けてしまうだけで、誰も幸せにはならない気がする。

総じて、当為がないのだ。とくしまバーガーとは、こうあるべきである。という当為が。
当為があるならば、あからさまな外見であろうが、自己主張のない質素なものであってもいい。
だが、いいとこ取りをしたつもりが、中立という安全地帯に逃げ込むだけであるのなら、“こうもりバーガー”と呼べばいい。そちらのほうが、よほど理念が明確だ。

筆者に、奇抜なアイデアはない。それは、飲食店が考えろ。
空港という地の利においては、無難なものはナメられるしかない・・・。

とくしまバーガー(7個目)

忘れたころにおちょくる、とくしまバーガー企画。

記念すべき第7個目は、「とくしまバーガー」という、分類と混同しそうなややこしいバーガーになります。
しかも、同名のバーガーがもう一ヶ所から発表されていて、まずは、ストレートに元祖を気取ったものの、かぶってしまうこの二店の安直さに乾杯しましょう( ^_^)/□☆□\(^-^ )

名称から笑いの絶えないバーガーであります。これは、ぜひとも詳しくご紹介したいが、店名を出さないというルールから、

小松島のバーガー”と”松茂町のバーガー”という出自で区分けたい。

ともあれ、今回は、前者の”小松島のとくしまバーガー”である。

ご覧のとおり、レンコンを挟んだバーガーだ。
めくると、阿波牛と阿波ポークの合い挽きパティとレタスがどっさりとはみ出す。
まれに、「写真をキレイに撮れ」というクレームがあるが、筆者は、整えすぎた幻想の食品に不誠実さを感じているので、あえてそのまま使います。文句は、包んだ人に言いましょう。

さて、このバーガーは、他所と違って水っぽくなるトマトを挟んでいないのと、よく見ると、バンズに焦げが付いていて、一手間、加えた感じがとても良い。
個人的には、唾液が少ないのか、パンというものは、焼くよりも、そのまま食べるほうがしっとりと喉心地がいいので、そちらの方を好みがち。

ところが、あいだに何かを挟むとき、もっちりとしたバンズは、食材の水分を受け付けず、肉まんでも食べているかのような閉鎖的な食感に昇華する。
一方、少し焼いて水分を飛ばしたそれは、その歯触りに加え、食材の水分を適度に吸い上げ、本来、相容れない小麦との調和を影で助ける。
やはり、料理は、口にしたさいの水分バランスで決まるのかもしれない。

しかしながら、味付けは絶望的に平凡で、徳島県が誇る文化的な味覚障害であるテリヤキ味が採用され、再利用なのかそのソースでレンコンを煮込んでフニャフニャにする。
せっかく、底敷のレタスが歯に心地よい食感を与えているのだから、筆者ならば、

「揚げてレンコンチップスにするだろう」

極めつけに、そんなフニャフニャにからむ”わさびマヨネーズ”という味覚の撹乱で、阿波牛も、阿波ポークも、特産品のレンコンも台無しにしてしまった。

辛くて無難な味付けは、味覚の崩壊であると、毎度のことながらここに記そう。

しかし、それが美味しいと人々は言い、
「わさびでもいけるがマヨネーズでもいける・・・」
という、基準の探求を忘れた曖昧さ、個性を価値相対主義で均して、その陥穽につけこんだ無難な思いつきを“表現”と呼び、そんなことを受け入れる、この県の人達はどうかしている。

匠の和菓子職人は、駄菓子の甘さの基本は干し柿で、干し柿の甘さを超えてはならぬと感覚的に知っている。
それは、自由とは制約の中からでしか生まれないということであり、絵の本質が額縁であることを肝に銘じて、食材と対峙していく誠実さである。

性質は違うが差し戻すと、肉の旨味を引き出すには、塩とコショウで十分だ。
和菓子職人ふうにいうならば、塩とコショウの領域で味付けの工夫をしなければ、いずれ徳島の味覚は、テリヤキに侵食されることだろう。

とくしまバーガーのパンフレットを開けば、バラエティあふれたアイデアの創作バーガーが、ソレであると書いてある。ここに、ご大層な審査会が設けられ、認定を受けたところで、結果、基準なき平凡な創意工夫は、無難さに集約して、十把一絡げに拡散していく。

結論。
われわれは、いつになったら、“色違いのスライム”から逃げ出せるだろうか

すだち牛バーガー(6個目)

少し間が空いてしまいましたが――、挫折してはいません、とくしまバーガー持ち帰り企画。

今回は、6個目、すだち牛バーガー

すだち牛のパティにトマト、チーズというシンプルな構成。さらに、チーズをめくると、パティがもう一つ隠されておりました。これは、お得だ。

ひとつ解説すると、すだち牛とは、なにもすだちの木から生まれる牛であるとか、牛に生えるすだちという特殊食材のことではない。
美味い家畜を育てる上では、ビタミンCが必要で、往々にしてサプリメントを与える。そのサプリメントの替りにすだちを与えた牛を、そう呼ぶのだ。

バンズは自家製らしく粉が吹き、店のエグいロゴが、なんとも日本のだらしないB級グルメブームをあざ笑うかのよう。

このブログでは、少し辛口で傲慢に論じているが、徳島を想ってのことゆえ、批判されてもあまり怒らないでいただきたい。
なにせ、徳島は全国的に見て、大して美味いものがないように感じるのは、表現者の与党精神の欠如、野党的な甘えがあり、自らが抗議されるかもしれない可能性を考えていない点にある。
それは、田舎特有の世間体であるし、その世間体がモラルを作るわけであるが、いつしか異論を許さない同調圧力を産みがちで、えてして、文句を言うと、味による応酬ではなく、味覚への疑いがかけられる。

何が言いたいのかというと――、
変なものには、変だ!と言わせてください

閑話休題。

囓ると、妙な繊維質に気がつく。これは、鳴門で採れるレンコンだ。郷土食材として文句はないのであるが、残念ながら、肉との食感がいちいち、バランスを崩していて、いらないと言いたい。そして、案の定、味のベースは照り焼きだ。

調べたわけではないが、総じて、徳島県人は、この照り焼きという味にめっぽう弱く、それは、ラーメン文化や徳島ハム(日本ハム)に元凶があると思われ、問題としては相当、根深い。

徳島県が糖尿病患者数、日本一というのは周知の沙汰とおもわれるが、この醤油ベースの甘辛い味をことさら好み、炭水化物に化けた後も「おかず」という概念でしかないゆえに、ラーメンや粉物と一緒にごはんを食べるという奇行をやる。

これらが味覚のベースとしてあり、味覚の伝統を破壊するハンバーガーにおいてさえ、日本的な無難な味に落ち着け、
「テリヤキ風にしてしまえば、何にでも合う」
という曖昧さを受け入れてしまった。
何にでもマヨネーズをかける人は、味覚障害である。同じく、何でもカレー味、トマト味というようなトレンドも、辛ければ良いという趣向も、「味オンチ」というメルクマールをつけざるを得ない。

こうなってしまうと、味と香りに限りなく無関心な舌が出来上がり、いくら安心安全でおいしいものを生産者が作っても、その情熱は理解されぬままに市場原理に絡め取られ、

「高いだけじゃないか・・・」

という評価しか受けなくなる。

身近な逸話を持ち出せば、グルメを自称する知人が、天然のものを使った料理を酷評し、化学調味料漬けの料理を絶賛したという笑い話があるが、それは、いたって普通の反応で、味覚とは、実に頼りないのだ。
なるほど、このすだち牛バーガーの包み紙には、小さく、味の素使用と書いてある・・・。

結論。
味覚を無難に絡めとる強い味付けと化学調味料は、生産者の努力を踏みにじる。

ハバネロミートソースバーガー(5個目)

ゴスロリはブスの隠れ蓑、白黒写真はアマチュアカメラマン――、
ということは、昔から男を呼び出すのが便所であるのに対して、女は神社というほど、相場はおよそ定着している。

他方、料理においては、「熱い」「辛い」もその類だ。

ついに出会ってしまった、5個目となるハバネロミートソースバーガー

一見すると、美味そうだ。
めくって、あら辛そう!ハバネロミートソース、パティ、トマト、レタス等。
肉は、ビーフとポークで出来ている。

このバーガーも、ぱっと見、「いかにもな徳島」という短絡的下品さがないため、ホッとしたのもつかの間か、味のベースがミートソースなのにトマトを惰性的に挟んでしまう安易さに、しばし囓って涙した。
それは、目玉焼きにマヨネーズをかけているのに、あえて疑問をもたないかのような調理人としての危うさ、思考的、一事不再議の無視を推し進めたところで、バランス感覚を崩すだけではなく、エンハンス効果にもなり得ないというのに・・・。
しかも、噛めば噛むほどハバネロと混じって、味がどんどん消えていく。

これが、とくしまバーガーの限界か?
本来は、徳島の食材を使ったオリジナリティ溢れるハンバーガーを作るのが目的であり、作り手は、各々、他所とは違ったハンバーガーを既存の概念にとらわれないように試行錯誤したはず?だ。

しかし、出会うバーガーのほとんどが、単なる食材至上主義でしかなく、行き着くところ、レタスやらトマトを添えるという既成の作法で、形式に拘泥していく。消費者から見れば、判でついた金太郎飴でしかないというのに。

そもそも、大衆の中に浸透しているハンバーガーなど、ファストフードの他にない。
悲しいことに、とくしまのバーガーは、数値化されたジャンク品にベクトルを向けて、性質の違うものを無理やり比べているかのよう。また、比べながら引きずられ、食材以外の差異がない。
工夫しているつもりが、思い込みの上に築かれた「工夫」によって、自ら創りだした観念の上で踊ってしまい、裸であることを隠すために、何かしらのスケープゴートによって、各々の正体を内向きに眺めて良しとする。

そこへ、無条件に褒める味覚音痴が、

「柔らかい、コクがある、ジューシー、シャキシャキ」

と、およそボキャブラリーのない不誠実な紋切り言葉で片付ける。憫笑するしかない。

残念なことに、このバーガーは、先日、紹介した「つくねバーガー」と出処が同じだ。これは、うっかり褒めてしまった。
ところが、つくねを作った開放感からか、ビーフだけでいいはずのパティに、余ったポークを練り込んで、つくねと半分共有させて、奇妙なモジュール化を図りつつ、従来の食材で挟んで安心し、辛さでおジャンにしてから単価切り上げ(つくね比較)!
牛が高いのか、ハバネロが高いのか?
肉の味も、限りなく豚寄りの、それでいて、豚というには物足りない味に仕上がってしまった。

かくして、高価な割には大したことのないハンバーガーの出来上がり。

また、とくしまバーガーを包む紙(認定を受けると配布されるのか?)は、ずいぶん安っぽく、水と油を簡単に通してしまうため、こういう、分厚いパティやソース、トマトのような水ものを挟もうものなら、中身が染み出し、ときに破れる。
特製の「バーガー専用バッグ」の底も、トマトの水で濡れてしまった。これは、改善の余地があるかもしれない。

今後に期待して、あえて言う。

「辛さでの商品訴求は、単なる味覚の陥穽だ。そういう舌は、「米」の味すら判断できない」

阿波尾鶏と阿波ポークのつくねバーガー(4個目)

僕は、焼きそばが食べたい。
私は、パンが食べたい。

ともすると、焼きそばパンが出来がちだ。

これを念頭に、4個目となる阿波尾鶏と阿波ポークのつくねバーガーを食べてみる。

いたって形はシンプルだ。
めくってパティ、トマト、レタスにタレ、マヨネーズ等々。
シンプルが良いとはよく言ったもので、少々、評価が難しい。

一見すると、視覚的な徳島らしさは微塵もない。

突如、脱線するが――、
筆者は、かつてより、阿波踊りやすだちで人工的な県民性を充填させる徳島県人がどうも変だと考える。なにせこれを「アイデンティティー」と呼ぶからだ。
阿波踊りはカリキュラムとして県人の身体に刷り込まれてはいるが、踊るだけが能ではなく、子どもの頃、遊んだ川であったり、駆けずり回った山、あるいは、屋上から見える街並み、路地の隙間から覗く日常。
そいうものが根ざした身体に外圧が加わることによって、県民性が顔を出す。

ところが、田舎特有の同調圧力が県民を杓子定規に設計してしまい、阿波踊りやすだちを批判することは、タブーに等しい扱いだ。
本来の伝統芸能、特産品は、県人の、自らの有限性を再確認するための装置として、阿波踊りなり、すだちなり、レンコンがあるのであり、短絡的に「そのモノ」を顕著にしていないと県民性に反し、郷土愛を疑われてしまうという、その「主義」に大きな疑問をもっている。

筆者は、県民とはいえ、阿波踊りもろくに踊れないし、何にでもすだちをかけるのは気持ち悪いし、フィッシュカツをうまいと思ったことがない。レンコンは好きだが、パンに挟みたいとは思わない。
しかし、徳島県は大好きだ。
少し、罪悪感はある。だからといって、すぐさま、連に入って踊りの練習をして、お好み焼きに金時豆を乗せて、ラーメンをおかずにご飯を頬張ることには、無理がある。

これまで、とくしまバーガーを酷評してきた背景には、そういう「個人主義的なパブリック」を地産地消とか地域活性という言葉で絡めて、一向に知名度も上がらず、むやみに拡散だけする組合の「ごっこ」に付き合わされる生産者、商店が気の毒に思うのが始まりだ。

もちろん、第一次産業や食育は大切ではある。だが、偶然、徳島で採れただけの野菜を、日本一、野菜を食べない県民が、指で数えられる程度の食材を認定し、言葉の上で付加価値を付けて、それでも、食育を否定する代表格であるハンバーガーに集約していくことに何の意味があるのか、何かが抜け落ちているのではないか?と感じてしまう。

ティータイムにおける、英国人は、高級な茶葉よりも比較的安価な、常用のソレを好むという。
つまりそれは、連綿とした日常に重きを置き、日常のものには一切、特別視をせずに暮らしていくからこそ、日常の大切さ、ハレとケの区別が小さな子どもでも知っている。
総じて、徳島県がやろうとしていることは、なんでもない「日常」のものをブランド化して、かえって敷居を高くしているように見えて、

「丹誠込めて作った――」

という誠実さが、知名度向上策を追い越して金銭と結びつくところ、県内においても、高価なものになっていくのだ。

余談が過ぎたが、阿波尾鶏と阿波ポークのつくねバーガー
冒頭でも述べたとおり、徳島っぽいわざとらしさがなく良いと書いた。反面、評価のしようもないと。

好きの反対は嫌いではなく、「無関心」といわれる。
だから、このバーガーも、語るに及ばないダメバーガーなのでは?と当初は思った。

ところがどうだ。囓ると欧米的価値観に日本という存在感がどことなく漂い、「つくね」というロジックで「てりやき◯ック」風にスライドさせるところ、ポークまで滑りこませるというアウフヘーベン!

鳥も豚も使いたい。欧風ではあるが、日本らしさも手放したくない。
そんな優柔不断さが産んだ奇妙な食感。和風ベース。それでいて、必要以上に味をいじらない承認欲求のなさに、人知れず余裕を感じるところが憎らしい・・・。
トマトはもちろん、原田ト◯トなどではなく、その辺のトマトなのだろう。
地産地消とは、どこまで使うかが難しい。

そういうものがさり気なく含有された「徳島」の有り様が、これみよがしに特産品を挟むバーガーよりか、好ましい。

ただ、つくねには、ご飯だ。
今後は、モス◯ーガーで売られているライスバーガーっぽく改良を期待して、大して批判もできなかった戯言記事を終わりたい。

わたしは、やさしくないのであえて言う。

「わかりやすいものにアイデンティティーを求めるな!その付加価値が、静かに需要を喰っていく・・・」

チキンカツトマトソース(3個目)

三個目のバーガーは、チキンカツトマトソース
体は名のとおり、まさしく、チキンカツ・トマトソースである。

構成は、いたって普通で、モ◯バーガーにでも売っていそうなひねりのなさ。
とはいうものの、下手に何かを狙ったり、形而下的観念の執拗な具現化、従来の形から入る短絡的な下品さ、あざとさがない点は、県人バーガーとして安心感がある。

それでは、トマトソースのかかったすだち鶏をパクリ、と、順調に食べて終わりたい。

ところが、だ。レタスの下に塗られているマスタードが、トマトソースと混ざり、相殺し合いながら別物のタレになり、入れなくてもいいきゅうりと同時に噛んでしまうと、実に残念な味と食感になってしまうのが、白ヘビがムカデになってしまったような蛇足さである。

しかも、とくしまバーガーのホームページに載っている画像とはかなり違っていて、名前も若干、異なる。これは、もしや別物か?

この記事の趣旨は、なにもとくしまバーガーにいちゃもんをつけるのが目的なのではなく、コンセプトに対する一つの意見としての発信だ。
だから、褒めるべきは褒め、貶すべきは貶すという、それだけのスタンスのみでやっている。誤解なきよう。

なのに、同床の悪夢のような、筆の置所を知らぬかのような手の込みようは、いじることが改良進化と疑わない、性質は違うが例えれば、スーツを着て一定時間パソコンに向かっていないと仕事をしていないかのような評価が下る、日本のIT企業のような、閉ざされたイノベーション世界にどこか似ている。

そこに、とくしまバーガーであるという限界がある。
おそらく、履き違われた形式への拘泥が、かえってバーガーの可能性を狭め、どこかナナメから捉えてしまう原因なのではなかろうか。

そこで、こういう呼び方を提案する。

「とくしまバーガー」

そう呼ぶことにより、回転寿司屋のように、シニフィアンとシニフィエとでもいう、『意味しているもの』と『意味されているもの』を区別して互いに開放の境地が見えてくる。
本来、ケーキや唐揚げは寿司ではないが、寿司の皿に乗ると寿司なのだとする、ソシュール(言語学者)も驚きのレトリックで、とくしまバーガーを捉え直そう!

いま、組合の連中がやっていることは、シニフィアン(=意味しているもの)に重きを置き、
その説明を手垢が付きすぎた地産地消や地域活性化という言葉に絡めとって、

「いかにもな徳島の食材を使えばええんじゃ!」

という、行動原理が、原理主義のように参加者に伝わってしまい、笑わずにはいられない産物となる。

実際のところ、いかにも、な、徳島の食材を使わずとも、バーガーを完成させることは可能であるし、その辺のスーパーで売っている徳島産の野菜や、ブランドの肉ではなく、ごくごく普通の徳島の肉をつかって、コストも計算しつつ、ときには、既製品に頼る。
そうやってできたものにこそ、手軽さや誠実さが宿るのであって、大切なのは、シニフィエ(=意味されているもの)であると、あえて難しく書いておく。

そんなことを書いていると、チキンカツトマトソースの記述が減ってしまったが、ソースをどちらかに絞れば、まずまずなバーガーといえるだろう。

最後に、わたしは、やさしくないので、あえて言う。

「徳島県民は過激なテロリストか?!食材の原理主義が味覚を滅ぼす!」